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日本経済新聞「こころの玉手箱」
> (1)父が残したノート
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> (5)スウェーデン製の猫 - 出演
2008/02/04
日本経済新聞 夕刊 18ページ
日本経済新聞 夕刊 18ページ
「現場主義」学んだ農家の記録
一九九一年に父が没し、一周忌が過ぎたころだっただろうか。遺品を整理しようかと机を片づけ始めた時だ。ごちゃごちゃの書物などの間から手帳サイズのノートが次々に出てきた。確か三十冊以上もあった。
小さな字がびっしり。どこの誰、牛が何頭、水田何ヘクタールなどと岩手県内の農家ばかり、一軒一軒の経営状況やデータを事細かに書いてある。黄ばんだページを夢中でめくった。あの父がこんなに現場を歩き、足で稼いでいたのか。
「男は黙って」タイプ。三人の息子に仕事の話などしないし、何も言わないまま逝ってしまった。農林省の局長から六三年、県知事選に出て落選。自民党参院議員になるまで五年間、雌伏した。その頃、選挙運動の傍ら記録し始め、引退するまで続けたものらしい。
初当選の頃は交通事情も悪く、資金も限られていた。一度家を出ると、洗濯物を抱えて戻るのはひと月後。リュック サック一つ背負い、農家を転々と泊まり歩いたと聞く。旧軍時代の仲間のツテや飛び込んだ役場の紹介で農家に上がり込んでは話を聞き、コツコツ書きためていたようだ。
農政がライフワークだったのは確かだが、国会議員になってマクロな政策の話かと思いきや、とことん現場を歩くことが基本だった。これがおれの仕事だ。ノートの行間からそんなつぶやきが聞こえる気がした。
末っ子で建設省の官僚だった私。かつての父と同じように知事選に担ぎ出されたのは九四年暮れだった。それまで 選挙に出る気など全くなかった。東京で生まれ育ち、岩手の在住経験もなかった。母に打ち明けると「そんなバカなことはやめなさい」の一点張りだった。
父が生きていたら、何と言っただろう。母と同じで反対したかも知れない。いや、自分で決断したのなら、後は自分の責任でやれよ。ただそんな風にだけ言われたような気もする。
選挙で県内を歩くとあちこちの農家で言われた。「昔、お父さんが訪ねてきてね」。当選後、実家に寄ってはノートを改めて眺めた。近代化、集約化といっても耕作形態は昔とそう大きくは変わらない。農政のイロハがそこにはあった。
おやじの背中。自分も政治に携わった以上、できるかぎり現場に出て、きめ細かく歩かなければいけない。それだけはいつも肝に銘じてきたつもりだ。
ますだ・ひろや
一九五一年東京都生まれ。東大法卒、建設省へ。
九五年に当時の全国最年少で岩手県 知事に初当選、三期務めた。地方分権の旗を振り、「改革派知事」の一角に数えられた。日本で初のマニフェスト(政権公約)選挙を実践した一人でもある。二〇〇七 年八月、民間から入閣した。